「飴玉」

誰か、もしくは誰かの言動について、どうにもこうにも言葉に表せない不快感を抱くことくらい、人間ならばどんなに温和な性格であっても人生で一、二度くらいは経験するだろう。それはただの「不快感」「嫌悪感」であったり、「僻み」「妬み」であったり、様々な姿で心の中を暴れ回る。
そのこと自体は、どうにもこうにも仕方ないことだ。
これを書いているワタシ自身、立派な人間には「月とすっぽん」で、それこそ月までほどの距離がある人間だから、そんなことなんてしょっちゅうだ。


「粋な大人」としては、できればその感情は静かに胸の奥にしまうのが理想的だろう。
しかし、どうしてもそうできないのなら、激しい感情を一度自分の中である程度冷まし、蒸留して余計なものを取り除いてから相手に表明するのなら決していけないことではない。それによってまた、何かを学ぶ人がいないとも限らない。そうでなくても、最低限相手が腰を据えて反論できるか、受け流せるほどの逃げ道くらいは作っておきたい。


しかし、例えばの話。そこで


「自分はお前の〇〇にたまらなく腹が立つ。だからお前は〇〇する(言う)んじゃない


などと、相手に向かって叫び散らすのはどうか。


冗談ならともかく、もし本気でそう言う人間がいたとしたら、それはわがまま放題の幼児が泣きじゃくりながら駄々をこねるのと何ら変わらない。
自分が不愉快だからという理由だけで他人や世間が変わると思って許されるのは、まだお乳の香り漂う幼児だけだ。幼児はかわいいし、世間のことも大人の半分もわからない。「正しい」「正しくない」の概念以前に、ただ守られなければならない存在だ。それを承知しているから、ほとんどの大人からは許されるのだ。


たいがいに性格の悪いワタシでも、本物の幼児にわけのわからないことで責め立てられ泣きじゃくられたとしたら、頭を撫でて「おーよしよし、ごめんねごめんね」と言い、飴玉のひとつでもあげるだろう。それがもし自分の子だったとしたら、あまり甘やかすつもりはないから幼児でもわかるように何とか言い聞かせようとし、あまりにひどいなら言葉で叱るだろう。
しかし例えば、本当に例えばの話だけれど。
それがすでに成人を終えた、もしくは法律上婚姻を許可された一人前の大人だとしたら。


「おーよしよし」の代わりに冷笑くらいしか、向けられるものはない。
頭を撫でるどころか、ひっぱたきたい衝動にすら駆られるだろう。


そうでなければ、あとはせいぜい飴玉に大量の唐辛子でも仕込んであげるくらいしか、ほかになす術なんてないんだだろうなあ。


以上、日曜午後のとりとめもない例え話は終わり。