バッドエンドとハッピーエンド

深海魚のカタルシス - 気が付くとまたBAD END
出られないから仕方なくここにいるよ。 - 美談ばかりで飽きないのか(上記エントリへの言及)


この2つの記事を読んで、ネット上にある(どちらかといえば超個人的レベルの)「美談」や「ハッピーエンド」はどれだけが真実のものなんだろうと思いを馳せた。
「本当はバッドエンドなのに、ハッピーエンドに変換または完全に作り変えられて発信されているハッピーエンド」も結構あるんじゃないかな、というのがワタシの考えなんだけれども。(その理由を詳しく言おうとするのは自分のお腹の痛いとこを探る作業だから言わない)


例えば

【事実】 「会社では相変わらず誰とも溶け込めないでお昼ごはんも独りでああ今日も鬱々と仕事してきましたよ」
【発信】 「会社では、結構うまくやってるかな。人間関係はあっさりしてて居心地いいし、仕事も順調♪」

【事実】 「彼氏からずっとメールが来ない。なんか浮気してるって噂も聞いた。最後に好きだよって言ってくれたのは…あれ、1年前?」
【発信】 「彼氏は今結構忙しいみたい。でもこの前好きだよって言ってくれたし、メールが少なくても我慢我慢><」


とか。


自分の中の辛さ、悲しみとかを「なかったこと」にしてしまう。
バッドエンドをバッドエンドだと書く自分にさらに惨めさを感じそうだから、バッドエンドを無理矢理にでも脳内でハッピーエンド(エンドじゃなくても、ハッピーな状況/ハッピーじゃなくても、ノーマルな状況)に変えて書く。喋る。発信する。

これって「逃げ」なのかな。
バッドエンドはバッドエンドとはっきり書くのが潔いことはわかっているけど、「バッドエンドをハッピーエンドに変えざるを得ないくらい追い込まれた状況」もありうるわけで、「卑怯」「うそつき」「見栄っぱり」と非難するのもきっと違うよな。本当に見栄で書いてる人もいるのだろうけどね。
あと「こんな自分のバッドエンドストーリーなんか読んで誰かが暗い気持ちになるのは申し訳ない」という意識もありうるな。これはかなり進んだステージの場合かも。
「自分の文章にまで凹むくらいなら、最初から書かなきゃいーじゃないか」って声もあるんだろうけれど、やるせない思いをじかに発散する場を持たない(持っていてもごく少数・完璧ではない)非コミュにとっては、ただ書くこと/それを誰かに見てもらうことをもって発散の場とする防御機能は失くしてはいけないものだとも思う。


「バッドエンドはそのまんまどばーっと吐き出してスッキリする」
「バッドエンドでもハッピーエンドとして公開してハッピーエンドになった気になる」


この2つの違い。どこから来るんだろうな。