「不幸の事実を書き記すこと」は、「踏み台」にしていきたい

徹頭徹尾、「不幸自慢」*1に終始するエントリは今後あまり書きたくはありません。
「これこれこんなふうに辛いことがあった」「自分の現状は今こうで、とても辛い」と書くときは、何かしら「この先」に繋がる「前置き」というか、跳び箱を飛ぶ前に足で強く蹴る「踏み台」*2のようなものと位置づけていきたい。
「100%ネガティブ」もないかわりに、「100%ポジティブ」もない、という基本認識があるもので。

ですから、pal-9999の日記 - まぁ、非コミュ・非モテに捧げる名言で引用されているカーネギーによるこの言葉

あなた自身とあなたの現状を哀れに思うことは、

単にエネルギーの無駄遣いだというだけではなく、

人間が持ちうる最悪の習慣である。


名言だとは思います。
思いますが、ワタシはそこで「である。」で閉じてしまいたくはないですね。


「である。」で閉じた時点で即座に思考が終わってしまうのは、良くも悪くも「既に成功した者」「十分に持てる者」の思考パターンだと思います。


現状を哀れに思った上で、それを踏み台にして「この先」に思いを馳せ、何かをしようという気持ちになるのならそれも十分「アリ」じゃないのかな、というのが「成功」には程遠く、「十分に持てる」どころか未だ五分目ほども持っていない「ともむーん流解釈」です。
「哀れじゃない哀れじゃない!」と何度念仏のように唱えたにせよ、事実が「哀れ」であれば変わらないのでしょうし、だからといって人生は最期を迎えるまでは通過点なのだから、その「哀れ」が一生続くとは誰にも言い切れないでしょう。


ネガティブとポジティブ、ワタシの場合ネガティブの比率はどうしたって大きいわけですが、できることなら両方常に内在させてうまく使いこなしていきたいのです。

*1:と呼ばれるような文体

*2:でよかったかな?