「アイデンティティ」ではなく、「タグ付け」

例えば、図書館で歴史の本を探すとき、真っ先に物理学だとか児童文学だとかの棚には向かいませんよね。はてぶで何かをやっている最中に料理のレシピまとめを見つけたくなったとき、とりあえず[料理] [レシピ]タグから情報をソートしたりしますよね。


ARTIFACT@ハテナ系 - 非モテとか非コミュなどを使って自分の気持ちや考えを語ること


これは、あくまでワタシ個人の捉え方なのですが。
最初は何の気なしに使い始めた「非コミュ」という語ですが、語自体とその意味がある程度広く認識されつつある現状、「非コミュ」とわかりやすく印をつけておくことで「自分は非コミュじゃないのか」という疑問を持ち始めた(自分と同じように)人付き合いに悩み苦しむ人に自分の記事を見つけてほしい気持ちはあります。
平たく言ってしまえば、「タグ付け」ですね。
実際、そのタグ付けが功を奏したことが相手からのはっきりした反応によりわかった出来事もあるので、この効果はなかなか侮れません。


ただ、非コミュにしても非モテにしても「アイデンティティ」からそれを名乗る人もいるのだろうし、ワタシ自身についても自分がどう捉えている如何に関わらず「非コミュというアイデンティティを持っている人」という視線を向けられるのはごく自然なことだと理解はできるので、この記事の主旨には同意です。


ちなみに、非コミュであれ非モテであれ、それを「アイデンティティ」として持つこと自体を良いとも悪いとも言うつもりはありません。その辺は完全に個人の自由なので。それもほとんどが「持とうとして持つ」のではなく、「結果として持つ」ということになるのでしょうけれどね。


ただ、もう一つのエントリにも書いたことにはなりますが、ワタシ個人としては自分の一生についてあくまで「終わりが来るまでは通過点でしかない」ものだと捉えています。だから、自分自身をある一つの要素で「縛り上げてしまう」のは、あまりにも勿体無いことのような気がするんですよね。